「公衆衛生ねっと」 災害時の公衆衛生

島貫秀樹の支援活動 B

○2日目(3月15日:被災5日目)

地域の主治医と朝一番で調整。医師会の理事もされており、地元に住んでいる先生。
院内処方をしているため、薬の処方も可能とのこと。
昨夜の低血糖について報告。
非常時に血糖測定ができるように、自己測定用意の血糖測定器をいただく。

朝食後、各部屋の様子を見に回る。
けがなどの訴えもなく、それぞれが自分の避難場所で座って過ごしている。
建物が音をたてて揺れる余震はあるが、建物が破損するほどの余震ではない。

避難所4日目になり、配食の作業は避難している方がボランティアをしている。
外部からの食品も入り始めるが、菓子パン・おかずパンが大量に入り始める。
賞味期限も翌日という状況。


小学校には、管理職クラス(校長、教頭、教務主任)の先生が1名ともう1名先生が当直をしていた。
当直している先生も被災者。親族の安否が確認できない、家の片付けができない。
ガソリンも少なく通勤も困難になってきている。
同じ被災者で支援者という立場。一方で、避難者も被災者であり、支援を受ける立場。
先生がいった言葉「私たちも被災者です。なぜ同じ立場なのに・・・」。避難者の多くが、病人ではないということを前日確認している。


午後からは、2.5km離れている沖野東小学校へ。
ここには保健師が常駐していない。小学校にある自転車を借りて現地へ。
昼食前に、体育館に行き、皆さんへお願いをしました。
・これから沖野東小学校に行くこと
・6時間程度は、この小学校に医療関係者はいなくなること
・その間は、自分の命は自分で守る、そして隣の人が体調を崩していないかお互いに意識する(自助、共助を訴えた)
・もし意識がなくなるなどしたら、すぐにスタッフに報告して救急車を呼んでもらう
・どさくさにまぎれて、 学校の先生も大変なんで、出来ることはそれぞれがやる
一瞬会場が静まったのですが、一部から拍手が。外に出ようとしたときに、男子高校生が寄ってきて、配給されたパンを差し出して「俺もなんかやりますので、頑張ってください」と声をかけられる。


自転車で、もうひとつの小学校へ移動。
ところどころ道路が陥没したり、屋根は壊れていたが、見慣れた景色は変わっていない。
車は少なく、自転車で移動している人もいる。
電気の回復は、沖野東小学校の50m前まできている。
東北電力のスタッフが霧雨の中、電線の点検をしている。


沖野東小学校へ到着。
電気が通っていなく、体育館の玄関前で炊き出しをしている。
本部は外にテントをたてて、そこに設置している。本部では、食料の配給について打ち合わせを町内会長を中心におこなっていた。
電池がない、食料が少ない、情報がないと、電気が回復していなことでこれだけの差があるのかと感じる。
新潟から持ち込んでいた電池30個、小型ライトを本部に寄付し、体育館の中へ。

体育館には約100名ほどの住民が避難していた。
電気が使えないため、霧雨の今日は午後2時なのに暗い。
それに追い打ちをかけるように、入り口の反対側にある簡易トイレへの出口からの風が流れる。体温を下げる。
一人ひとり声をかけ、高齢者は血圧測定を実施。知っている顔もちらほら。
みんな言うのが「県外からきてくれたのか?」という言葉。
ラジオからの情報、新聞の情報のみで、精神的に孤立していたと話されている。
この後、県外からの支援が継続してあることを伝える。

乳幼児の家族が5組程度。
どの子供も鼻風邪をひいている。夜泣きも強く、みんなに迷惑をかけていると母親は話す。ガス以外のライフラインが回復した家族は、戻ったとのこと。おむつも足りないとのこと。
区役所より連絡が入り、小児科の先生が巡回に来てくれる。
解熱剤を中心に処方してくれる。
夕方になり、高齢者を中心に避難所へ戻ってくる。電気もなく、夜は不安とのこと。

夕方6時
沖野小学校へ自転車でもどる。学校近くの鮮魚店に電気がついている。
店に入ると、北寄貝と魚の刺身が少しある。
話を聞くと、震災の日に仕入れていたもので、氷漬けしていたものを販売している。
復興への一歩を感じる光景であった。

沖野小学校へもどる。
体調不良を訴える避難者はいない。
地元の婦人部が炊き出しを行った、味噌汁をいただく。

夜は、教頭先生、市役所の方、区役所の方と話をする。
役所のこと、学校のこといろいろ話した。時には笑いながら。
学校の機能や役割、勤務のことなど。
はじめてその内容を知った。

                            次へ